戸恒和夫氏ご逝去のご報告
2024/12/24
12月2日以降、僕は通常の数倍の忙しさに突入しました。普段でも生業のための仕事は無いとはいえ、羽生の杜の活動やその周辺のもろもろの仕事でそれなりに忙しい毎日で、それを熟していくには自分のキャパシティーを超えて相応のエネルギーと集中力が必要なのです。
12月2日、この日を境に凄まじく身体と頭が時間に追われることになります。12月2日23時ころ、羽生に移り住んで以来最も信頼しあらゆる場面で惜しみなく手を差し伸べ、助けをもらいながら一緒に活動してきた相棒でもあり、友人の戸恒和夫が自宅において突然倒れ済生会病院に救急搬送されたのです。搬送中の救急車の中ですでに心肺停止状態に陥り12月17日の最後の日まで一度も覚めることがないまま彼は逝ってしまいました。
僕はその2時間前まで彼のお連れ合いともう一人の友人の4人で夕食を楽しんでおりました。普段から週に2回はランチを取りながら子ども食堂やパントリーに関わる多くのことを相談したり、活動で生じる様々の課題を共有したり、時には議論しながらやってきた相棒です。彼にはどれだけ助けられ励まされてきたかはかり知れません。そして、これまでの長い付き合い(8年)のなかでも僕らにおいては夕食をしたり、お連れ合いを誘って一緒に外食をすることなどもほとんどなかったのですが、この日は珍しくそんな機会に恵まれて楽しい食事をして別れたのです。
帰宅して2時間後、お連れ合いから「田村さん、驚かないで!」と前置きされて緊急搬送の顛末を聞くことになりました。
翌日から先に述べたような猛烈に時間に追われる超多忙な日を送ることになったのです。
昨日(27日)メモリアルトネ斎場において「お別れの会」を執り行いました。
学生時代から中学の教師時代に関わり続けた「子ども問題研究会」関係の方々と教師リタイア後に加須の地元で活動してきた仲間たちや関係者など約250名が参列するお別れ会となりました。
子ども問題研究会の丸子さんと私の二人が司会進行役を仰せつかり、子ども問題研究会と子ども食堂関係から各5人の方々にお別れの言葉を述べていただきました。ほぼ「戸恒流」を貫き湿っぽい仕切りではなく自然体でみなさんの想いをつなぎ共有したいと思いながら進行させていただきました。(弔辞という)お別れの言葉に頷きながら聞き入り、終わると「そうだ!」とばかりに自然に拍手を繰り返しました。葬儀場の担当者は異例の進行にさぞ驚かれたことと思います。
彼も「お~い!よくぞワシのオモイを組んでくれたなあ!嬉しいぞ!」と言ってくれているのではないかと勝手に思っております。
それにしてもあまりにも突然の最後でした。彼が担っていた子ども食堂関係の業務は膨大でした。そして彼の周りには「辛い人」や「迷っている人」「手助けを必要とする人」がたくさんおりました。そのような人が彼のそばに寄ってくるのですが。業務を人一倍に背負い込み、そして彼らに寄り添う生き方を最後の最後まで歩んだ男でした。
僕には彼の抜けた穴を埋めることなど到底できないのですが日々の最低限こなさなければならない業務や寄り添いの一部は引き受けざるを得ません。
残された宿題、課題は彼が抜けることによって相乗的に膨大に膨れ上がっているように感じております。一人分抜けたのではなく数人分が抜けた穴が出来てしまったのです。
生き残っている僕としては一気につっかえ棒が外されてしまった気分なのですが、立ち直るのが大変です。きっと、そんなヤワなことを言ってる場合ではなのです。
畏友・戸恒和夫よ!もうちょっとだけ頑張るよ!俺は。